先日、都立大学前駅にある江戸前寿司「新田中」に行ってきました。
私は2度目でしたが、前回は食べていない、「リアルに命をいただいた」と実感させられる1貫がありました。
江戸前寿司 すし処「新田中(しんたなか)」
「新田中(しんたなか)」は東京都目黒区(東横線の都立大学前駅)にある江戸前寿司が食べられるお寿司屋さんです。4000円弱の「70分食べ放題」が人気で、時間制限があるとはいえ、美味しいお寿司が食べ放題、とリーズナブルでコスパが良いため、予約がとりづらいのが難点…?気軽にお腹いっぱいお寿司を食べることができるお寿司屋さんです。
命の重さを感じた1貫は人気の「車海老の握り」
私たちふたりに衝撃が走ったネタは、注文制限のある「車海老の握り」。前回はまったくのノーマークで、お隣のお姉さんたちが頼んでいて、握りの後にお酒のあてとして出てきた海老の頭の素焼き?が美味しそうだったので頼むことにしました。
そして、何の気なしに食べようとした瞬間…
思わず目を見張りました。
頭が切り落とされているのに、殻もむかれて食べる仕様になっているのに、動くはずのないネタ(海老)が動いている…。
私は見ていないのですが、ご一緒した方によると、どうやら先程まで生きて泳いでいたものが出てきているらしく…。(あとでネットで調べたら、やはりさばきたてが出てくると書いてありました)。
なので、シャリの上でまだ動いているんです。
鮮度の良さの証とはいえ、海老の踊り食い(ともちょっと違うけれど)はさすがに心構えができていなかったので、ちょっと食べるのに躊躇していました。
そして、時間をおいて、もう平気かな?と手で握りをつまみ、口元へ運んだ瞬間…
食べられることを嫌がるように手元、そして口元で動くので、食べるこちらも慌ててしまいました。
反射だとわかっていても、口元に運んだ瞬間の、嫌がるように力が加わり、のけぞるような動きをしたあの感じ。
そして、逃げられる!と思い、その抵抗を止めるように、その身に歯を突き立てたときの、想像以上に硬く引き締まった海老の身の感触。
今の時代、ほぼ感じることのない「命の重み」、そして、生きるために私たちは何かの命をいただいている、ということを改めて自覚させられた瞬間でした。
私たちは生きるために何かの命を糧にしている
現代では、肉が私たちの前に出てくるとき、原型のわからない切り身になっていることがほとんど。魚は1尾まるごと売っていることもありますが、切り身になって売られているものの方が多いですよね。
私たち人間は、常に何かの命をいただいて生きているわけですが、それを身をもってわかっている人、というのは、実はほとんどいないのではないかと思います。
良くも悪くも、今の環境や食の流通システムは、その残酷な本質を直視せずにすむ形になっています。そう、良くも悪くも。
このことを考え始めると、命の授業や狩猟、銀の匙、料理人によるプライベートな食事会で見た鳥の丸焼きやネームタグのついた仔牛肉の塊のことを思い出し、様々なことに言及したくなってしまうので、ここでは控えますが…
私の命は、植物も含め、何かの命をいただくことで成り立っている。
理解はしていますが、今の生活環境だと、その感覚はどうしても薄れてしまいがち。それを、命をいただくというのはつまりそういうことだと、車海老の握りを手にしたことで突きつけられた気がしました。
(幸い、私は魚介類に対してはそこまで罪悪感のようなものはないので、食べられるところはすべて、ありがたくおいしくいただきました)。
「いただきます」の語源は「命をいただきます」。真正面から考えるとやっぱり重いです。でも、それでもやっぱり、お寿司は美味しい。なのでこれからも感謝して、食べられるところはすべてをいただき、私の中で生き続けてもらおうと思いました。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
「食べる幸せ」は、実は、見たくないものを直視しないからこそ成り立っていること、なのかもしれないと思った夜でした。